三国志における名脇役!魏建国の功臣「張郃」の名将ぶりをご覧ください

歴史上の人物で、曹操ほど熱心に人材をリクルートした英傑はいないだろう。

「人財」などという言葉が日本の企業で叫ばれることがあるが、人はすなわち国家であり、国家はすなわち人である。

曹操はそれをよく知っていた。

黄巾の乱以降、必ずしも有利とは言えなかった曹操が、広大な中国の天下の3分の2までを得ることが出来たのはそのためであると言って、異論の出るところではなかろう。

張郃はそんな曹操陣営の中でも特に信頼の厚い将軍で、張遼や楽進などと共に「5将軍」と評されることもある名将だ。

今回の主役はそんな張郃である。

 好敵手

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張郃という人物を一言で表すなら「好敵手」という言葉がぴったりであろう。

劉備陣営は常に張郃に苦しめられた。黄忠が夏侯淵の首を取った時、「張郃の首にはその10倍の価値があるだろう」と言わしめたほど、劉備陣営にとって張郃の存在は目の上のたん瘤であった。

そんな張郃の登場は黄巾の乱がおきた時、豪族の一人である韓馥が黄巾賊討伐の兵を挙げるとこれに参加、のちに韓馥が袁紹との戦いに敗れると部下と共にそのまま袁紹に降伏した。

外様ということもあり、袁紹軍内部での扱いはあまりよくなかったようだ。

それでもなんとか存在感を示そうと、公孫瓚との戦いでは大いに活躍したものの、公孫瓚の部下であった趙雲子龍が張郃の前に立ちふさがる。

軍勢を率いてでの戦いでは圧勝、しかし直接刃を交えての一騎打ちでは力及ばず打ち負かされてしまう。

2度趙雲とは刃を交えるが、若き猪野武者の勢いを前についにこれを陥落させることはできなかった。

やがて時は経ち、袁紹と曹操の間に、天下分け目の合戦である官途の戦いが始まった。

張郃は当初沮授や田豊と共に会戦に反対するも、佞臣たちに押され袁紹は合戦を強行、白馬の戦いにて顔良・文醜の二枚看板を失っていた袁紹軍の先鋒として曹操軍の前に立ちはだかる。

曹操軍の先鋒は名将と誉れの高い張遼。

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両者は4、50合ほど打ち合うも決着はつかず、その後決定打を欠いた両軍はにらみ合うこと半年となる。

長期戦は曹操軍に不利であった。

当時袁紹軍と曹操軍においては国力に大きな違いがあり、純粋な兵力や兵糧なども圧倒的に袁紹軍が有利であったのだ。

しかし曹操軍は荀攸の鋭い見立てとの許攸の裏切りもあり、敵将淳于瓊が守る兵糧庫、烏巣を襲撃。

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張郃は過ぎに援軍を派遣すべきと主張するも袁紹軍の都督であった郭図は曹操軍の本陣をこれを機に攻めるべきと主張。張郃は曹操軍は精強であるがゆえに奇襲は失敗すると反論。

袁紹は両者の論陣の真ん中をとり、張郃は反対したにも関わらず曹操軍への強行を敢行、しかし曹操はそれを見抜いており、あえなく敗退。烏巣の兵糧も焼き尽くされてしまう。

袁紹陣営では郭図が自身の失策を隠すために張郃と高覧が寝返ったと讒言、袁紹はこれを信じてしまう。

行き場を失った張郃は曹操軍に降伏するしかなかった。

その際、曹洪は2人を怪しんだものの、荀攸が「張郃は計略を採用されず怒って降伏したので、疑う必要はありません」と言って擁護、曹操自身も「伍子胥は自分が誤った君主に仕えたことに気がつくのが遅かったために、不幸な最期を遂げた。君が私に降伏したのは微子啓が殷を裏切って周に仕え、韓信が項羽の下を去って劉邦に仕えたような真っ当な行動である」と言って張郃の降伏を喜んだ。

このあたりが曹操と袁紹の違いだったと言えるだろう。生まれつき優秀な人材がいた名門の袁紹と、自ら優秀な人材を求めてリクルートを続けた曹操。

張郃もこの恩に報いようと袁紹軍への先鋒をかってで、見事に勝利をおさめることに成功する。

その後も袁紹軍の残党、北方異民族との戦いなどで着実に成果をあげ、曹操の地盤獲得に貢献していく。

そんな曹操に牙をむく男がいた。

涼州の覇者にして神威将軍との異名をとる馬超であった。

父馬騰を曹操に殺された恨みを晴らすべく、白銀の獅子となって曹操軍へ突撃してくる。先鋒として迎え撃った張郃であったが、馬超の勢いを前に敗退、曹操軍は本陣まで迫られ、あわやの大惨事となる。

その後は賈詡の離間の計などもあり撃退に成功したものの、曹操の心に深いトラウマを遺した猛将であった。

馬超が張魯のもとに降伏すると、後を追って張魯を征伐、漢中を攻略し、そのまま防備の任に就く。

漢中攻防戦

漢中は、漢の高祖こと劉邦が力を蓄えた重要拠点である。

益州を平定した劉備軍と、天下統一を望む曹操軍は漢中の地で激突することになった。

曹操陣営を指揮するのは名将夏侯淵。曹操の従弟であり信任熱い将軍だ。

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対するは老将軍である黄忠。

知名度で言えば雲泥の差のある2人の将軍だったが、無名の老将が名将を打ち破る金星をあげた結果となった。

この際、劉備は「もし張郃の首であれば10倍の価値があったであろう」と述べていることから、張郃がいかに手ごわい敵であったかがよくわかる。

夏侯淵亡き後は諸将満場一致により張郃が漢中の指揮を執ることになった。

歴戦の名将相手に攻めあぐねていた劉備陣営であったが、仁王の化身ともいえる張飛の活躍によって張郃を撃破することに成功、張郃は大敗を味わうことになるが、漢中の住民を自領土に避難させることに成功、お咎めなどは一切なかった。

諸葛亮の北伐

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曹操が死に、曹丕が漢の献帝より禅譲を受けて魏を建国すると、張郃は左将軍の地位についた。これに対抗して劉備も蜀を建国、ちなみに蜀の左将軍は馬超である。

やがてその劉備も死んだ。

そしてその後曹丕も死んだ。

劉備玄徳の意志を継いだ諸葛亮孔明は、これを機と見て国をかけて北伐を開始した。

張郃は曹丕の子曹叡から特進の位を与えられ、これを迎え撃つ。

孔明の腹心である馬謖を街亭の戦い打ち破ると蜀の軍団は撤退、張郃は司馬懿の呉征伐に参加すべく荊州に引き返すが再び孔明が北上してくると漢中に帰還、見事に諸葛亮孔明の軍を追い返す活躍を見せる。

やがて漢の名門司馬懿仲達が漢中方面の司令官に任命されると、悉く意見が対立。

お互いに軍を分け、司馬懿が孔明を、張郃が王平の軍と戦うも両者敗北。

やがて蜀軍が撤退を開始すると張郃はこれを追撃するも腰に矢があたってしまいそれが元でこの世を去ってしまう。

 

正史の張郃

というのは、明代に成立した「三国志演義」での張郃の話である。

演義では蜀の面々を主役とするため魏の面々がわりを食っているところがあるが、張郃もその代表みたいな扱いを受けている。

大枠は実際の歴史と変わらないのだが、まず趙雲とは戦っていない。

趙雲は実際には悲しいぐらい活躍しておらず、その脚色のために張郃は負け役となってしまった節がある。

あとは馬超にも負けていない。実際には張郃は馬超に勝利している。

演義では黄忠と厳顔のコンビに負けていることもあるが、負けてもいない。

唯一張飛には大敗した。

張郃に対する勝利は張飛最大の功績と言え、その勝利により漢中の地を劉備陣営にすることが出来たと言えるだろう。

孔明にも勝っているし、劉備が最も恐れた曹操側の将軍は張郃であったという。

 演義においては孔明の活躍を強調するため司馬懿の部下としての立場が強調されているが、孔明が北伐を開始した時には司馬懿は呉と戦っており、司馬懿が対蜀にあたったのは第四次北伐の際からであり、実際に孔明を撃退したのはほとんどが張郃の活躍によるものであると言える。さらに言うと、司馬懿が孔明に勝利したという記録は実はない。司馬懿は最後まで孔明には勝利できなかったのだ。

張郃の死を聞いた時、曹叡をはじめとした魏の諸将はその死を悼んで多くが涙したという。

後年、魏の功臣20人が発表されると張郃もそこに名を連ねることになる。

曹家三代に仕え、武将でありながら儒学をよく学び、敵からは恐れられ、味方からは信頼された武将だと言えるだろう。

まさに名わき役という言葉、あるいは好敵手という言葉がよく似合う武将である。