「泣く子も黙る!」という表現があるが、三国志の登場人物の中でその名を聞くと泣いている赤ん坊でさえも泣き止むと言われたのが魏の武将「張遼」だ。
張遼、字は文遠、まさに怪物と呼ぶにふさわしい彼の活躍を見てみよう。
丁原、呂布、董卓
役人をしていた張遼が、人並みはずれた力の持ち主であるのを見抜き傍らに置いたのは丁原であった。
時はまだ何進が大将軍だった時代。何進は朝廷に巣食う有力宦官集団である十常侍に対抗すべく兵を集めていた。丁原もその要請に従い、張遼に対し兵を集めるように命じる。
かくして張遼は河北の地において1000の兵を集め、都に戻った時には大分事情が変わっていた。
まず何進が死んだ。十常侍によって返り討ちに合っていたのだ。十常侍は袁紹によって壊滅させられていた。十常侍の生き残りは幼き王子たちを連れて逃げだしたが、途中で自らの命を絶ってしまう。その王子たちを保護したのはたまたま通りかかった董卓であった。
董卓は王子たちの保護者として朝廷を意のままに操ったが、それに異を唱えたのが丁原であった。董卓は李儒と図り丁原の義理の息子呂布を寝返らせ、呂布は義父であった丁原を殺害してしまう。
ようやく兵士を集めて帰還してみたらこんな状態だったので、張遼はそのまま董卓に仕えた。
情勢はめまぐるしく変わる。
その董卓を呂布が殺したのだ。
この時張遼が何を思っていたのかはわからない。
だが、張遼は呂布に従った。
呂布が長安を去る時にも従ったし、曹操との戦いの際にも従った・
やがて呂布が曹操に敗れ、命乞いを始めると張遼は高らかに笑った。
「なさけないな呂布、男なら死ぬときは潔く散ろうぞ!」
呂布が処刑され、自分の番になった。
自分を処刑せんとする曹操に向かって張遼は暴言を吐く。
「濮陽では惜しいことをした。もう少しで国賊を討ち取れるというところだったのに」
張遼には死ぬ覚悟があった。
しかし、張遼は死ななかった。
処刑の瞬間、曹操と同盟を結んでいた劉備の義兄弟関羽が処刑を止めたのだ。
「文遠殿が忠義の士であることは拙者が命をかけて保証します。どうかご容赦を」
関羽大好き曹操は、これを聞いて張遼の縄を解いた。
ここまでされては張遼も頭を下げるしかなかった。
流れ流れて張遼は、曹操の配下として生きてゆくことになったのだった。
曹操の配下として
関羽への恩返しの機会はすぐにやってきた。
曹操と劉備の同盟は決裂し、劉備は敗れ、袁紹をたよって1人生き延びた。
関羽は劉備の家族を守りながら抗戦していたが、多勢に無勢、もはや討ち死にかと覚悟していた。
そこへ曹操側の使者として現れたのが張遼だ。
「その命、私に一度預けてくれませんか?」
関羽はこうして一時的に曹操の許に降伏し、その陣営に加わった。
やがて曹操は天下の覇権をかけて袁紹との戦いに臨んだ。
白馬の戦いにおいて、張遼は関羽と共に顔良の軍団を撃破することに成功、大いに戦功を挙げた。
やがて関羽が曹操のもとを去る際には曹操と共にこれを見送り、関羽とは敵となるも変わらぬ友誼を誓う。
その後は袁紹の息子達およびその残党との戦いに従事し、次に北方異民族である烏桓との戦い、劉表との戦いと各地を転戦した。
遼来来
張遼がその強さを最も発揮したのが孫権との戦いであっただろう。
赤壁の戦いに勝利し、勢いにのる孫権軍は曹操軍の要塞である合肥を攻めた。
これを守ったのが張遼その人で、孫権自らの親征を悉く跳ね返す。
散々な孫権陣営だったが、起死回生のチャンスが訪れる。
張遼の部下のある男が張遼に懲罰を受けたのを恨みに思い陣営に夜火をつけるというのだ。
孔明の兄である諸葛瑾はこれを罠だと進言するが、孫権は太史慈に命じて夜襲を敢行させる。
予定通り火の手があがり、城門も空いた。
太史慈はなだれ込むように城内に侵入したが、そこに待ち受けていたのは矢の嵐だった。
張遼はあらかじめ一連の流れを把握し、裏切り者をあえて泳がせておいたのだ。
孫権の軍は散々に打ち負かされ、太史慈は戦死した。
「男として生まれながら、名を上げずに死んでいくのか!」
やがて曹操が死に、魏が建国されると、蜀と呉が建国され、両国は同盟を結んだ。
これに危機を感じた魏の皇帝曹丕は自ら軍を率いて呉の討伐に向かい、張遼はこの先鋒を務めた。
しかし呉の徐盛や丁奉といった名将の前に魏の軍は攻めあぐね、作った船は転覆し、呉の名物と言っても良い炎が魏の陣営に襲い掛かる。
曹丕は命からがら逃げ延びたが、張遼は戦いにおいて丁奉の放った矢が腰にあたり、なんとか許昌まで逃げ延びるものの傷が裂けてそのまま死んでしまう。
正史での張遼
三国志演義は蜀を主人公としているため、必要以上に蜀の武将が活躍し、魏の武将は必要以上に貶められる傾向にあるが、張遼も貶められた人間の1人だ。
演技の張遼でも十分強いのだが、正史の張遼はもっとすごい!
丁原に見いだされ、呂布に従い、曹操に降るところまでは演義と正史で大差はない。関羽との友情も歴史書に残っているレベルだ。
劉表攻めぐらいまでは特に違いはないのだが、対孫権軍の活躍が大きく異なる。
張遼は合肥の地を李典・楽進と共に守るも3人はお互いに仲が悪かった。それでも国の一大事ということでなんとか連携し、合戦の前には牛を裂き、これを共に食したという。
張遼は先鋒として孫権陣営に攻め込むと敵将を2人斬り、孫権のいる場所まで目に見える場所まで突撃してきたらしい。これを見た孫権はビビリまくり、腰を抜かしながらも逃げ出す。これを追う張遼は「逃げずに戦え!」と叫びながら孫権陣営を荒らしまわったという。
孫権は部下に命じて張遼を包囲させたが、張遼はそのたびに包囲をぶち破り自分の元へやってくる、それでも包囲に取り残された部下たちがいたのでそのたびに部下を助けに行くというおまけつきだ。
結局孫権軍は張遼にびびってしまい、合肥を攻めるのを断念し撤退を始める。張遼はこれを機と見て追撃軍を組織、散々に孫権軍を打ち破る。この際、淩統がしんがりを務めるもその軍は全滅、孫権はまさに命からがら逃げ延びた訳である。
やがて曹操が亡くなり曹丕が魏を建国すると張遼は前将軍に任命され、領土をもらい、自分の母親の分まで邸宅を賜った。曹丕は張遼の合肥での活躍を聞くのが好きであったらしく、張遼の武勇をほめたたえ、その時の兵士たちを自らの近衛兵としたという。
220年、降伏していたはずの孫権が再び魏に兵を向けた。
張遼はこの際病気であったが孫権討伐に向かい、敵将呂範を討ち取り活躍を見せるも、病には勝てずに最後は敗退、そのまま病でこの世を去ることになった。
曹丕は張遼の死を聞いて涙を流したという。
個人的な張遼の評価
個人的に張遼は、三国志の中でも好きなキャラクタートップ5には入る。
なにせ強い。頭もそこそこに良い。
合肥での活躍は「げぇ、張遼!」とでも言いたくなるようにすさまじく、後世の評価も非常に高い。
正史では最強の武将である曹仁の次であると評価され、唐の時代において、中国史で最も偉大な人物64選にも選ばれている。
243年に行われた魏の名将20人を祀る催しの際にも、当然のように名を連ね、如何に張遼の評価が高かったかが伺える。