美髯公!蜀建国の功臣「関羽雲長」の魅力と激しい生きざまについて語る!

三国志における主役の1人と言っても過言でないのが関羽雲長の存在だ。

劉備達桃園三兄弟の次兄で、三国志の登場人物の中でも神様になったのは関羽だけ!

日本の横浜中華街にも「関帝廟」という関羽を祭る廟があるぐらいで、500人以上が登場すると言われる三国志において破格の待遇を受けている人物だと言えるだろう。

 桃園三兄弟

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関羽と劉備の出会いは話によって多少異なっていて、劉備と張飛が行った先の居酒屋にいるバージョンや元々張飛と知り合いである場合なんかがある。劉備が旗揚げした際に張飛と共に劉備の陣営に加わったバージョンが一番史実に近いであろう。いずれにせよ意気投合した三人は桃園にて義兄弟の契りを結ぶのであった。

我ら3人、生まれた日は違えども兄弟の契りを結び、心を同じくして互いに助け合わん。困窮する者は助け、上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。そして死す時は同じ年、同じ月、同じ日を願わん。皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すべし。」

身長は九尺(2m越え)にも及び、顔は熟れた柿のように真っ赤で、丹鳳の目、臥蚕の眉、顎の下には2尺もありそうな美しい髭があることから美髯公の綽名をつけられており、82斤(約18kg)もある青龍偃月刀である冷艶鋸を携えたその様はまさに武神と呼ぶにふさわしいであろう。

劉備と共に黄巾賊討伐に赴き、その武勇を以て敵将程遠志を切り捨てると逃げまどう反乱軍をギッタギタにのしてしまう。

その後都を支配し暴虐の限りを尽くした董卓に対抗すべく諸侯が反董卓連合を結成すると劉備と共に参戦。連合軍が敵将華雄に手も足も出ない中、有力諸侯の1人曹操が言う。「誰か華雄を斬れるものはおらぬか?」

「私が行って参りましょう」

そういって青龍偃月刀をやをらつかんだのは我らが関羽だ。

曹操が景気づけにと酒を差し出すと勝ってからいただきましょうと言うから自信に満ち溢れている。かくして軽々と華雄を切り捨てて帰ってきたころにはまだ酒は暖かかったという。

人材コレクターと名高い曹操、これは大変気に入って、いつか関羽を配下にしたいと思うのであった。

華雄を討って勢いに乗る連合軍にの前に現れたのが飛将軍の名を持つ武将呂布奉先だった。有力武将が次々と打ち取られる中、武勇自慢の弟張飛が呂布を相手に打って出る。

両者互角の打ち合いをするが張飛の額に汗が滲んできた。これには関羽たまらず加勢。

「兄貴、邪魔すんなよ!」

そういう張飛の息は上がっていたが、呂布は涼しい顔をして楽しむ余裕さえ見せている。

やがて劉備も加わると、呂布の顔からは笑みが消え、やがて息切れの音が聞こえるようになる。

「今日はここまでとしよう」

そう言って呂布は去っていき、両者引き分けのうちにこの戦いは終わったのであった。

曹操の許に降り無双する

呂布は曹操と劉備の連合軍によって倒された。死に際に劉備をみた呂布は「こいつこそが一番信用ならん」と言って果てた訳だが、曹操がこれを真に受けたのかは不明だが、やがて曹操と劉備は敵対視、劉備は散々な負け戦を味わうことになる。

この結果劉備は袁紹のもとに逃げ、張飛は山賊に、残された関羽も曹操軍の包囲を受けていた。

劉備の妻とともにあった関羽はもはやこれまでと討ち死にを覚悟したが、そこに曹操側の使者が現れる。

「関将軍、ここで死んでは忠義も果たせませぬぞ」

そう言ったのは曹操配下の張遼その人だった。

張遼は呂布の配下だった武将で、捕まった際に「さっさと殺せ!」と言っていたのを関羽のとりなしで曹操の配下になった人物であった。

今度はこちらが命を助ける番だとばかりに関羽に降伏を進める使者を買って出たわけだ。

「臣下としてまず考えるべきは主君の家族の安全ではございませんか?」

こういわれては関羽も降伏せざるを得ない。

この結果に曹操が大喜びしたのは言うまでもない。呂布から奪った赤兎馬をこれはチャンスと思って関羽にあげてしまう。

曹操はやがて袁紹と天下分け目の決戦へと駒を進める。

兵力は袁紹軍が約10倍、その上敵将の顔良には曹操が誇る人材コレクター達も歯が立たない。

「私が敵将の首を持ってまいりましょう」

そう言って顔良をあっという間に切り捨てて曹操を大喜びさせる関羽。

その行為は伝説上の化け物のような容姿をした文醜を怒らせてしまう。

文醜の怒りに戦々恐々する曹操陣営を後目に、関羽はこれも一刀のもとに切り捨ててしまう。

そのまま曹操は白馬の戦いに勝利し、天下分け目の官途の戦いにも見事に勝利を収めることが出来た。

曹操としては関羽をとどめておきたかったが、劉備が袁紹の許を去ったと聞いて関羽はこれを追いかけることに。

途中5つの関所にて5人の将軍を打ち取り、敵の将軍夏侯惇を怒らせてしまう。夏侯惇との激しい戦いの中曹操がやってきて、静かに「行かせてやれ」とだけ。

どんだけ関羽好きなんだよ…

赤壁の戦いと長沙攻略

時は流れ、劉備と合流を果たした関羽は中国を南下し、孫権と連合して曹操の軍を赤壁にて大いに打ち破ることに成功した。

水上戦で大いに敗れた曹操を、待ち伏せていたのが関羽であった。

「どうか、見逃してくれぬか…」

曹操にそういわれた関羽は、かつての恩義ゆえに曹操を斬ることが出来ずに見逃してしまう。

かくして劉備の許へ戻った関羽は孔明に向けて言う。

「私は死罪にしてくだされ」

孔明静かに首を横に振り、「知っておりました。曹操の命運を表すあの星は、まだ輝きを失っておりませぬ故。もし関将軍を死罪にするのなら私も同様の罪を受けねばなりますまい」

これには劉備も焦り、関羽を不問にするのであった。

そんなこんなで荊州の南4郡を攻めることにした劉備一行の前に、1人の老将軍が立ちふさがる。

老人の名は黄忠

聞いたことのない名の老将を、関羽は甘く見ていた。当初は斬るに忍びないと思っていたが、どれだけ打ち込んでも傷一つ負わせられない。互いに打ち合うこと数十合、突如黄忠の馬が足をくじいて転んでしまった。

このチャンスに関羽は馬を引き返した。このような勝利など、関羽は望んでいなかったのだ。

次の日、黄忠は関羽の兜に矢を当てると早々に引き返した。

「借りは返しましたぞ」

長沙太守の韓玄はこれを見て黄忠が敵と内通していると勘違いし、牢に閉じ込めてしまったが、劉備大好き魏延によってあっさりと斬られてしまう。

かくして長沙は劉備軍のものとなり、関羽は荊州全体の守備にあたることになった。

関羽の奮戦と最後

劉備が益州の劉章を攻めている間、関羽は荊州を守備していた。荊州を狙う勢力は多く、曹操軍、孫権軍とのにらみ合いが続いた。

劉備が張飛などとともに漢中を攻略したころ、関羽も荊州最大の都市である襄陽の攻略に成功している。

曹操軍とはこの地を巡って激しい戦いを繰り広げ、敵の曹仁、龐徳、徐晃、于禁などとと一進一退の攻防に明け暮れる。

関羽は于禁を捕え、龐徳を捕獲するという軍功をあげ、曹操の手から荊州を守り通す。

曹操陣営の司馬懿は作戦を変え、孫権軍との共闘体制を整える。

孫権はかつて関羽に対し自分の息子と関羽の娘を婚姻させようとしたのだが、「犬の子に虎の娘はやれん!」と言って断っている。

孫権軍は裏から手をまわし、関羽の部下であった糜芳・傅士仁を寝返らせることに成功。

北からは曹操軍、東からは孫権軍、南には裏切り者、傅士仁が担っていた補給路を完全に断たれ、荊州の民はすでに潜伏していた孫権の将呂蒙によって掌握されていた。完全に行き場を失った関羽は捕えられ、息子の関平と共に処刑された。

首は曹操の許へ送られ、曹操を呪い殺したとも孫権のもとに送られ呂蒙に乗り移り呂蒙を呪い殺したともいわれる。

関羽に取りつかれた呂蒙は、全身の穴という穴から血を流し、孫権に飛びかかり「おぬしの肉を食ってやる」と言って絶命したという。

関羽が殺されたことに激怒した劉備は孫権に戦いを挑むも、大都督となった陸遜の前に夷陵にて敗北、その直前に亡くなった張飛の後を追うように天へと飛び立っていった。

正史三国志における関羽

関羽は三国志演義の主人公の1人と言え、序盤はかなり優遇された描写が多い。

具体的に言えば、華雄を倒したのは孫堅であり、曹操の許を去る際の5将を破るエピソードもない。顔良のことは倒したが、文醜を倒したという記録もない。

ついでに呂布との一騎打ちもなく、関羽の見せ場のほとんどが創作という形になってしまっている。

ただ、曹操に捕まって配下になった後劉備のもとへ帰ったのは本当で、追いかけようとした部下たちを曹操が制したのは本当。あれ?これって曹操が格好いいエピソードじゃないか?

ちなみに赤壁に負けた曹操を見逃したのも創作で、黄忠と戦ったという事実もなく、むしろ黄忠が後将軍に任命された時には文句を言って部下に諫められている。

劉備が漢中を平定すると関羽は前将軍に任命され、黄忠と同格になるのが気に入らなかったようだ。

また、馬超が劉備陣営に加入した際には孔明に手紙を送っており、その返事に「馬超は黥布・彭越(劉邦の時代に活躍した人物たち)に匹敵し、張飛殿と互角の実力を持つ人物です。もっとも、関将軍には及びませぬが」と言われて満足したというエピソードもある。

虎の娘を云々と言ったかは不明だが、孫権の息子との縁談を断ったのは事実で、このことで曹操と孫権の同盟を結ばせてしまったのは事実であろう。

関羽は全体として相手を軽んずる癖があり、部下に対し苛烈に接した部分があったため糜芳や傅士仁といった部下の離反を招いてしまったと言え、その高すぎるプライドが死を招いてしまったと言えるだろう。

三国志演義では関平は養子ということになっているが、実際には実子であったようで、やはりともに処刑されており、次男の関興も早死に、三男と言われる関索に関しては完全に創作で、一の部下であった元黄巾賊の将である周倉もまた創作であると言われている。

創作の多い関羽であるが、麻酔無しで手術を行った際、眉一つ動かさなかったエピソードもあり、曹操軍の軍師程昱をして「その武勇、一万の兵士に匹敵する」と称されたほどで、同時代を生きた人物からは怖れられ、尊敬もされていたことが伺われる。

演義での活躍は大半が創作であるが、顔良や龐徳と言った将軍や魏の功臣でもある于禁をも破った活躍は史実であり、その武勇は本物であろう。

ただ、于禁の守る樊城を攻めるために孫権軍の兵糧を強奪したり、呂蒙が病気のふりをして前線を退いた際の後任である陸遜が若いのを知って油断したり対孫権陣営への対応を明らかに誤ったことを見ても政治的な駆け引きはうまくなかったというべきであろう。

春秋左氏伝を好み、そらんじられるほど読み込んでいたというが、根っからの武人で、統治などには向いておらず、やはり劉備がいてこそ輝ける人材だったと言えるだろう。

三国志を書いた陳寿は、関羽と張飛に対して以下のような評を下している。

「関羽・張飛の二人は、ひとりで万の兵に匹敵すると賞賛され、当世における虎臣(勇猛な家臣)であった。関羽は顔良を斬って義を果たし、張飛は厳顔の義心に感じ入ってその縄目を解き、両者並んで国士の気風があった。然し、関羽は剛情で自信を持ち過ぎ、張飛は乱暴で情を持たず、両者共その短所により身の破滅を招いた。道理からいって当然である。」

個人的な関羽の評価

三国志を題材としたゲームをやる時、必ず仲間にしたいのが関羽である。

圧倒的な武力と指揮能力、そして知力も高く、敵に寝返りにくいがその分仲間にもなり難い。

どのシリーズでも鬼神のような活躍をし、味方にすれば強いけれども、敵にしたときには恐ろしく、関羽の兵力は減らないのにこちらの兵力はどんどん減っていくという恐怖の存在でもある。

いわばチート級の強さを誇る関羽であるが、陳寿の言う通りプライドが高すぎて自滅してしまった感が拭えない。

もっとも、三国志のキャラクターがなぜ魅力的かというと、誰も彼も完全無欠ではなく、人間らしく欠点を持っているからだと言えるだろう。

関羽も呂布も張飛も、その武勇は圧倒的だがそれぞれ別々の欠点を持っており、塵際は見事と言えないが、それゆえに皆魅力的なのである。