ローマの覇権を決めたアクティウム海戦は共和政ローマにおける最大の内戦であり、紀元前に行われた海戦においては最大のものとなっている。
この戦いにより共和政のローマは滅び、ファースト・ローマン・エンパイアーは誕生することになった。
これはその記録である。
表向きはローマVSエジプト、実態はカエサルの後継者争い
アクティウムはギリシャ近海にある海域のことで、1500年後に地中海最大の海戦が行われるプレヴェザの近くでもある。
ローマ内乱期最大の会戦であるファルサロスの戦いもギリシャで行われており、ローマ人同士の覇権を争う戦いがともにギリシャの地で行われたことは興味深い。
歴史の教科書とは面白いものだと思う。ローマ史上最大の戦いであるファルサロスの戦いが載っている教科書は日本にはないが、重要度としては落ちるであろうアクティウム海戦が載っていない教科書もまたない。
カエサルは「人間は見たいものを見る生き物」と言ったが、日本人はアクティウム海戦を見たいのかも知れない。
さて、アクティウム海戦を語る上で重要なのが、一体どことどこが戦ったのかということである。
これは結構世界史得意な人でもわかっていない人の方が多いんじゃないかと思うけれど、アクティウム海戦はファルサロスと違ってローマの内戦ではないのである。
アクティウム海戦は共和政ローマとプトレマイオス朝エジプトが地中海の覇権をめぐって衝突した戦いなのである。
お判りだろうか?オクタヴィアヌスのこの巧妙さが?
オクタヴィアヌスは万事がこの調子である。
日本人はオクタヴィアヌスを初代皇帝だと思っている。
皇帝とは何だろう?
秦の始皇帝が名乗ったその称号を、オクタヴィアヌスに適用したのは世紀の誤訳であろう。
オクタヴィアヌスは、ただの一度たりとも自らを「皇帝」とは名乗っていない。
彼はただ、カエサルからカエサルの名を継いだだけだったのだ。そしてそれは義理の息子であるティベリウスに継がれ、その次のカリギュラに継がれ、クラウディウス、ネロ、その後も多くの人に継がれていった。
オクタヴィアヌスは一度も「皇帝」と名乗っていない。ただ彼らの継いだ名が後に「皇帝」と呼ばれるようになったのである。
後代の我々日本人に理解できないのは仕方がない。なにせ、オクタヴィアヌスは同時代のローマ市民、同時代の元老院議員をも騙しとおしたのだ。
カエサルは終身独裁官になり殺された。オクタヴィアヌスはただ単にローマの第一市民という意味の「プンケプス」を名乗っただけだ。
そう、この巧妙さがオクタヴィアヌスなのである。
そしてアクティウム海戦はその巧妙さがモロに現れた。
オクタヴィアヌスとアントニウスの戦いの構図にすれば、それはローマ内部における内戦に過ぎない。
内戦を制した結果カエサルはどうなったか?
答えは暗殺されたである。
だがエジプトの戦いならどうだろうか?
クレオパトラとの闘いなら、ローマとエジプトの戦いの図になり、内戦ではなく、オリンエトにおける専制君主国家から共和政ローマを守る戦いになるのである。
オクタヴィアヌスはアントニウスやクレオパトラが戦うには、あまりにも巨大な相手だった。世界の歴史において、ここまで巧妙な統治能力を発揮した人物は、他にいない。
賢いとされるクレオパトラは、所詮オクタヴィアヌスの手のひらで転がされていたに過ぎない。
離脱するローマ兵たち
オクタヴィアヌスの対立構図は劇的な効果があった。
日本でも戊辰戦争の際、西郷隆盛という策士が錦の御旗をたて、徳川軍を賊軍とさせたことがあったが、それと構図は同じである。
アントニウスに従っていた兵士たちは、自分たちがローマの敵になったことに愕然とした。
それでもアントニウスにスッラのようなカリスマがあればよかったのかも知れない。
しかしアントニウスはクレオパトラに魅了されて完全なる腑抜けになってしまっていた。なにせローマの領土になるはずのシリアや小アジアなどをクレオパトラにそのまま渡してしまった上に凱旋式をローマではなくエジプトのアレキサンドリアで行うという暴挙に出たぐらいだ。
*緑色で塗られた部分が全部アントニウスがクレオパトラに割譲した領土。常軌を逸している。
兵士たちは愛想をつかし次々にオクタヴィアヌスの許へ馳せ参じた。
エジプトには富だけはある。
なにせ3000年にわたる歴史があるのだ。
その金で傭兵を大量に雇った。そして軍船も大量に作った。
だが所詮は数だけだった。
国を守るために誇りと名誉をかけて戦う兵士と金のためだけに戦う兵士、一体どちらが強いだろう?
アクティウム海戦
それでもアントニウスの許に残った兵士たちは、アントニウスに陸戦を提案していた。陸からローマに攻めあがるルートだ。
オクタヴィアヌスの政治力は世界史上圧倒的な1位だが、戦いはドヘタであった。軍事は全てアグリッパという将軍に任せていたが、客観的に見てアグリッパとアントニウスの力は互角ぐらいで、陸戦なら勝ち目があっただろう。
しかしクレオパトラはなぜか海戦を主張した。クレオパトラのYESマンに成り下がったアントニウスは陸戦ではなく海戦で決着をつける方針を採用した。当然の如くこのことでまた多くの優秀な将兵がアントニウスの許を去った。
クレオパトラがなぜ海上戦を主張したのかはわからない。おそらく大した理由などなかったのだろう。クレオパトラの行動は万時が行きあたりばったりであった。
それでも、純粋な戦力の数で言ったらまだクレオパトラの方が多かった。
ローマ側の兵士数は20000を越えないぐらい、エジプト側は23000ほどだったと言われ、軍船の数はローマ400にエジプト230ほどであったが、それでもエジプト側は巨大な軍船が多かった。
この構図は1600年後に世界の海の覇権をめぐって争ったアルマダ海戦でも見られたことで、巨大船の多いスペインを小型船の多いイギリスが破ったように、小型船の方が小回りが利く。
そういった要素がなくても、どのみちローマが勝ったであろう。
戦いが始まるとすぐにエジプト側の不利が目に見えるように分かった。まるで相手にならなかったのだ。
クレオパトラはその様を見てあろうことか戦場から逃げ出した。アントニウスもそれを見て戦線離脱。
遺された兵たちはオクタヴィアヌスに降伏した。
非常に、お粗末な戦いだった。
戦いの結果を受け、オリエントの君主たちはローマ側についた。
クレオパトラはもはや用済みと思ったのか、アントニウスに自分が死んだ旨の誤報を贈った。すべてを悟ったのかクレオパトラなしでは生きていけないのか、アントニウスはすぐに自害した。
クレオパトラは続いてオクタヴィアヌスを魅了しようとするが、妻リヴィア一筋の男オクタヴィアヌスにはまるで効果がなかった。
クレオパトラは絶望し、自らを毒蛇に噛ませこの世から旅立っていった。
地中海の覇権は再びローマのものとなり、オクタヴィアヌスはローマを救った英雄として凱旋式を挙行するのであった。
エジプトは滅んだ。
そして共和政のローマもこの後すぐに滅ぶ。
ローマ帝国の誕生である。