三国志一の成長力!呂蒙子明の活躍に刮目せよ

「呉下の阿蒙」と呼ばれ馬鹿にされていた少年時代から後に三国が一国呉の大都督まで昇り詰めた呂蒙。

「男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」や「虎穴に入らずんば虎児を得ず」などの故事のモデルともなった人物で、関羽ファンからは嫌われてしまっているが、その実力は折り紙付きで、呂蒙が亡くなった際には主君の孫権が悲しみでご飯が食べられなかったほどだという。

 呉下の阿蒙

名門出身の多い三国志の英雄たちの中でも珍しく呂蒙の家はかなり貧しかったようだ。

呂蒙はこの貧しさから抜けるためには戦功をあげるしかないと思っていた。

たまたま姉が孫策の部下である鄧当という人物と結婚していたため、呂蒙は鄧当に黙って戦に参加していた。その時まだ15歳という若さだったため鄧当はそれを知って激怒、呂蒙の母親にそのことを報告した。

呂蒙の母親は呂蒙を叱ったが「ではどうやってこの貧しさから抜け出すのです?虎の穴に入らなければ虎の子は得られません!」と言われて何も反論できなかったという。

若い頃の呂蒙はとにかく暴れん坊であった。呉下の阿蒙などと言われて馬鹿にされていた訳だが、ある時自分を馬鹿にしてきた役人を呂蒙は勢い余って殺してしまう。こりゃあいかんと一度は逃げ出したわけだが、後に自首、するとこれを聞いた江東の小覇王孫策は一度会ってみたいと言って呂蒙を召し出した。

自分と同じ匂いを感じたのか、孫策は呂蒙を気に入り、側近として取り立てることにした。

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こういう部分が孫策が勢力を拡大できた理由でもあるかも知れない。人の能力を見る目があったのだろう。

やがて義理の兄である鄧当が死ぬと張昭の口添えもってその地位を継ぎ、将軍として軍を率いる立場となった。

しかしこれからというときに孫策は死んでしまう。

跡を継いだのまだ若き孫権で、呂蒙はこれはチャンスと自分の軍隊に赤い服を着せ、きちんと付け届けをし、孫権のお気に入りとなる。

その際、これからはしっかりと勉強するようにと五経や孫氏、六韜などを与えたという。呂蒙は当初忙しいからと言ってこれを嫌がったが、お前ならできる!と言われ、それ以降は孫権のいいつけ通りこれらの本を読み漁るようになる。

しばらくして孫権の部下魯粛が呂蒙に会いに行った。魯粛は孫権陣営でもトップクラスの富豪で、教養も深かった。その魯粛が呂蒙に久しぶりに会い、その勉強ぶりに驚き、

「もはや呉下の阿蒙」

というと、呂蒙はこう答えたという。

「男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見よ」

208年、孫権はついに父孫堅の仇を討つべく黄祖のもとへと攻め入った。呂蒙はこの戦いで敵方の水軍都督であった陳就を自分の手で打ち取り功績を挙げ、そのことによって大いに昇進を果たす。

続く赤壁の戦いにおいても周瑜と共に曹操を散々に打ち破り、孫権軍の中でもその存在感を増していくようになる。

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歴戦の勇将

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呂蒙は武勇と智謀を併せ持つ将軍として孫権軍にはなくてはならぬ存在となっていった。

荊州では曹仁の軍を跳ね返し、魯粛が関羽に苦戦すると対関羽の策を5つも出す。213年に曹操が攻め込んでくると濡須口の戦いでこれを打ち破り、劉備が益州を手に入れると呂蒙は魯粛と共に関羽の治める荊州を攻めることになった。

この荊州攻め、元々は劉備が孫権に対し益州を手に入れたら荊州を返すという約束を違えたことから始まった。

「涼州を手に入れたら返す」

この一言に孫権は激怒し、魯粛と呂蒙を派遣した訳である。呂蒙は荊州の南4州と言われる年のうち長沙、桂陽を降伏させ、零陵も太守を計略により降伏させる活躍を見せる。

やがて魯粛は関羽との会談に臨むが、関羽の側にまるで誠意のないのに激怒しこれを叱責、劉備の側も丁度漢中を曹操が手に入れた時であったので、孫権側に和睦を提案、孫権陣営は荊州南4州を劉備に返還することになった。

215年には曹操軍の名将張遼が攻めてきた。

張遼の圧倒的武勇の前に孫権軍は手も足も出ず、この合肥の戦いは孫権軍にとって苦い敗戦となってしまった。

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呂蒙は淩統とともに撤退する孫権を援護し、命を救うことに成功、その2年後に再び張遼が攻めてくると孫権軍はたちまちのうちに敗走してしまうが、孫権は呂蒙を最高指揮官に任命、曹操軍の侵攻を食い止めることに成功した。

大都督呂蒙、関羽を打ち破る

孫権軍の大都督は周瑜から魯粛に受け継がれていたが、魯粛が亡くなると呂蒙がその任を継いだ。

魯粛が亡くなったことで対劉備陣営の外交は諸葛瑾が担当することになる。余談だが、諸葛瑾は諸葛亮孔明の兄であり、当時孫権陣営の中でも劉備側に寝返るのではないかという噂が出た。孫権はそれを聞くと笑って言ったという。「諸葛亮が私に使えないように、諸葛瑾も劉備には仕えないのだ」と。孫権もまた英傑の器であるというべきであろう。

しかし諸葛瑾は荊州の返還請求には失敗、劉備陣営はあくまでも荊州を保持する姿勢を崩さなかった。

そこで孫権は関羽の娘と自分の息子の縁談を用いるが、関羽は「虎の娘に犬の子にはやらん」と言い放った。

このような部分が関羽の欠点であるというべきであろう。

孫権軍は荊州奪還を決意した。

おりしも当時関羽は樊城にいた曹仁を攻めている時であった。攻めあぐねた関羽は孫権に援軍を頼むも、援軍は遅れてやってきた。関羽はこれに激怒し、「樊城の次は孫権を滅ぼしてやる!」と叫んだという。

関羽とて馬鹿ではないので、孫権が攻めてくる可能性を考慮はしていた。

そこで呂蒙は仮病を使い、自分が病気であるという噂を流させた。関羽はちょうどそのころ曹操陣営の5将軍と言われる于禁を降伏させていたこともあり、すっかり調子に乗っていた。その噂を裏付けるように、呂蒙のもとには陸遜という人物が見舞いにやってきていた。関羽はそのことを聞くとすっかり警戒を解いてしまう。

関羽は呂蒙が病気であることをいいことに、孫権陣営から物資を強奪し、全力を以て樊城の攻略に取り掛かる。

時は来た。

呂蒙は陸遜や蒋欽と言った将軍とともに荊州に攻め入り、傅士仁と糜芳を瞬く間に降伏させ、江陵一帯をその支配下に置いてしまう。

呂蒙はそこで領民に金を配り、治安の回復に努めたため大変な支持を受け、一方の関羽は徐晃に敗れて江陵に引き返そうとしたが、すでに帰る場所はなく、麦城にこもるより他なかった。

呂蒙はその隙に陸遜に命じて関羽の退路を潰し、孫権は自ら軍を率いて荊州にやってきた。関羽はこれに対し偽りの降伏をして退路を確保しようと思うもこれに失敗、最後は潘璋に子の関平と共に捕えられてしまう。

孫権は関羽を生かしておいて関羽と曹操をぶつけるつもりであったが、臣下たちに「関羽は狼のような人物です、このままいかしておけば必ず禍をもたらすでしょう」と言われ、関羽親子を処刑し、その首は曹操のもとに送っている。

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これを聞いた劉備が全軍をもって攻めてくるわけだが、それはまた別の話。

関羽を破った呂蒙であったが、その後病気になってしまう。孫権はそれを聞くと食欲がなくなり、呂蒙の病状を聞いては一喜一憂したという。219年、孫権は呂蒙の治療に賞金までかけたが、その甲斐もなく呂蒙は死んでしまう。

享年42歳。呂蒙の後は陸遜が継ぐことになる。

三国志演義での呂蒙

いつもは演義⇒正史の順だが、呂蒙に関しては正史⇒演義の方が良いかと思う。

呂蒙に関しては最期を除いては大体演義も正史も変わらないのだが、最期はものすごく違う。

演義における呂蒙の最期はすさまじい。

関羽を破った後孫権は戦勝の宴を開くのだが、呂蒙の様子がその途中でおかしくなった。

突然フフフと笑ったかと思うと「碧眼の小児、紫髭の鼠輩」と孫権を罵り、「ワシは関羽だ」などと叫び始める。明らかに正気じゃない。

突然孫権を押し倒し、身体中にある7つの穴と言う穴から血を噴き出してそのまま絶命してしまう。

流石にこの部分は創作が過ぎる上に、関羽はそんなことしないという理由で近年の三国志演義ではこの場面は削られることが多くなっている。

いくら蜀びいきとはいえ、これは酷すぎる…

個人的な呂蒙の評価

史実をもとにした創作である三国志演義を除けば呂蒙に対しては最大限の賛辞が述べられている。

三国志の作者陳寿は「国士としての器量を備えるに至ったのである。これがどうしてただの武将といえようか」と最大限の賛辞を贈っており、関羽打倒も呂蒙の優れているが故に可能となったとしている。

唐代において、中国の名将64選を選定した際、呂蒙も選ばれており、三国志の中でもここに含まれるのは呂蒙含めて7人だけである。他のメンツは張遼、鄧艾、関羽、張飛、周瑜、陸遜、陸抗と豪華で、三国志以外のメンツを見ても田単や王猛、尉遅敬徳など歴史的名将ばかりで、呂蒙の評価は諸葛亮や楽毅よりも高いと言える。

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成長力だけで言えば三国志の中でも断トツの1位であり、故事成語になった数も多い。

名将関羽を捕え、張遼の侵攻を防いだ呉建国の功臣であると言え、三国志全体で見ても五指に入るほどの名将だと言えるだろう。