古代ローマにおける記録抹消刑(ダムナティオ・メモリアエ)について解説するぜ!

現代の法律の基礎を作ったのはローマ人である。

表現の自由や私有財産制、経済活動の自由や信教の自由など、基本的に現代で当たり前とされている諸権利はローマ人が法文化したものであり、それをもとにイギリスやフランス、アメリカやドイツなどの法律が作られており、日本人はそれらをもとに明治時代法律を作成した。

早稲田大学や中央大学、明治や法政などの関東の主要な大学は元々法律学校として開校したし、大学教授の中にはラテン語を解せる人間も少なくない。

それぐらい現代に影響を与えたローマ法の中でも一際異彩を放つのが「ダムナティオ・メモリアエ」と言われる記録抹消刑であろう。

これはある意味で死罪よりも重い罪で、適用されるとローマの公式的な記録からその全てを抹消されるという刑罰である。

 実際に適用された人物は少なく、撤回された人物も多い

ダムナティオ・メモリアエを発動するのはローマの最高意思決定機関であり立法機関でもある元老院(セナトゥス)である。

ローマの歴史において元老院ほど特殊性の強い機関もないであろう。

元々元老院は王制時代の頃からあって、その時は王に助言を与える役割であった。その後王制から共和政に移行するにあたって最高意思決定機関になり、帝政になってもその影響力は非常に強力であった。

なにせ、正式な皇帝と認められるのは元老院に認められた者に限ったからだ。

元老院議員になるには、プラエトル(法務官)やコンスル(執政官)クワエストル(会計監査官)などになる必要があり、それらは選挙によって選ばれるため、現在の国会議員に近い立場であったと言えるだろう。

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事実現在でも多くの国が上院のことを「元老院(セナトゥス)」と呼んでいて、アメリカやフランスなどではそのまま名称を使用している。

そんな元老院派しばしば為政者においてダムナティオ・メモリアエを適用しようとしている。

ネロやカリグラと言った暴君はもとより、五賢帝と言われるハドリアヌスにも適用されたことがあり、その数は実際にはかなりの数に及ぶのだが、実際に適用されて完全に記録が抹消されたのは実はドミティアヌス帝とゲタ、スティリコの3人ぐらいである。

ハドリアヌス帝に関しては、死後に神格化が否定され、記録が抹消されかかったが、後継者であるアントニウスが涙ながらに元老院に訴えたのでそれが取り消しになったという逸話がある。

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アントニウスはこの一件によって「慈悲深い」と綽名され、それが後に公式名となり「アントニウス・ピウス」として歴史に名を遺すことになる。

ローマの歴史において綽名が公式名になることは珍しくはなく、カエサルなんかもポエニ戦争の際カルタゴで象を表す言葉が綽名になったのをそのまま家名にしたという逸話もあるほどだ。

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悪帝で知られるネロも後年ヴィテリウスが取り消したし、カリギュラの際も次の皇帝であるクラウディウス帝のとりなしで刑の執行を免れたという歴史もある。

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ドミティアヌス帝に関しては、それを取り消そうと弁護する者がなかったということもあるし、後継者であったネルヴァが暗殺に加担していた可能性が高いということもあっただろう。

そのためなのかドミティアヌス帝に関しては明らかにねつ造とさえ思われるような悪評が沢山あり、その功績にはあえて触れないようにしている感じさえある。

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ゲタは最悪クラスの暴君として有名なカラカラ帝の弟で、先帝であり父であるセプティミウス帝がローマ領域内に配った家族の肖像がから全て顔を削り取らせたほどの徹底ぶりであった。

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これは酷い…

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しかしダムナティオ・メモリアエが適用されるのは暴君だけではない。

ローマの歴史でも指折りに優秀なスティリコという将軍にも適応されており、これは暗君として知られるホノリウス帝が宦官であるオリンピウスという人物の讒言を取り入れたからであり、余談だがこの後急速にローマ帝国の力は衰え、滅亡へのカウントダウンが始まるのであった。

このケースでは皇帝直々に刑を執行したということもあり、ついぞ撤回されることはなかった。

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ローマ以外での記録抹消刑

ダムナティオ・メモリアエが適用されたのはローマだけにとどまらない。

ローマの民主的な部分は西側諸国に受け継がれたが、このような法律は東側に受け継がれた。

この最たる例がソヴィエト連邦のスターリンであった。

以下の2枚の写真を見比べてほしい。

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本来は全く同じ写真なのだが、エジョフという人物が消えているのがわかる。

他にも共産党の林彪が同じように記録の抹消を受けているケースもあり、写真や肖像画以外にも石像が倒されることも一種の記録抹消刑であり、東西冷戦の終結の際や二次大戦終了の際に指導者の石像が倒されるのもその一種であると言えるだろう。

ダムナティオ・メモリアエに関しては、ローマ法の負の側面ともいうべきかも知れない。

世界最大のダムナティオ・メモリアエ

公式に「ダムナティオ・メモリアエ」を適用した訳ではないが、過去最大級の記録抹消をしたのはやはりテオドシウス帝であると言えるだろう。

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テオドシウス帝は教科書にはキリスト教をローマの国教とした皇帝として記載されているが、その際ローマの主神であるユピテルに有罪判決を下し、ローマ中にある石像という石像を倒壊させたことは教科書には載っていない。

歴代ローマ皇帝は死後に神格化されていたため、歴代ローマ皇帝の像やローマの文化はこの時期徹底的に破壊された。

それらの行動は神を尊重する素晴らしい行為であるということで、ローマ法王はテオドシウスに「大帝(マグヌス)」の地位を授けたという。

おかげで多くの記録が散逸し、皮肉にもローマの歴史を最も後世に伝えたのが火山に埋められてしまったポンペイの遺跡と言う有様だ。それゆえにローマの歴史はポンペイ以後よりも以前の方がより詳しく残っている。

それでもローマ法が現在まで伝わっているのは、ユスティニアヌスがそれをまとめた「ローマ法大全」を遺したからだろう。

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ダムナティオ・メモリアエについて思うこと

ローマ人は何よりもその生きざまに誇りを見出す種族であるという面では日本人の武士道と似た価値観を持っていると言えるだろう。

生き恥をさらすのを何より嫌った民族であるが故、死後に石像が立つのは最高の名誉であり、記録が抹消されるのは最大の恥辱であった。

ワンピースと言う漫画に「人はいつ死ぬと思う?・・・忘れられた時さ」というセリフがあるが、それを思えばまことに恐ろしい刑罰であると言えるだろう。

人は死を認識する唯一の生き物で、それゆえに死後に何かを残したいという最大の承認欲求がある。それを赦さないというのだからこれほどの罰はないだろう。