SPQR!ローマそのものと言っても良い元老院(セナートゥス)について徹底解説するぜ!

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古代ローマの歴史において特に異質だと言えるのが元老院の存在であろう。

古代の国家においてはオリエント的な専制君主制が一般的であったし、民主制と言ってもギリシャ諸国家には元老院のような組織は見られない。

ローマとは一体なんだろう?

ローマとは、単に現在のローマ市を中心とした国、という訳ではない。

ローマとはすなわち元老院なのである。そういっても過言ではないだろう。

SPQR」という言葉がある。

「Senatus Populusque Romanus」の頭文字をとった言葉で、意味は「元老院及びローマ市民」とでもなるであろうか。

この言葉はローマ領内のあらゆる場所に刻まれ、人々の心にも刻まれてきた。

「Senatus」という言葉は現在でもアメリカやフランスの上院を表す言葉として使われ、明治時代には日本にも元老院を設置したほどだ。

今回はそんなローマそのものと言っても良い「元老院」について見て行こう!

王制時における元老院

 元老院はロムルスがローマを建国した紀元前753年には既に存在していた。

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王制時における元老院の役割は王への助言であった。

「敗者をも同化させてしまうことがローマの強さそのものであった」

その言葉の通り、ローマは他民族をも吸収してしまうことにその社会的な特徴があったと言える。

ローマの精神は「寛容」の精神であり、排他性を持たない自由主義的な社会であった。なので二代目の王ヌマにおいてはすでにラテン民族ではなくサビニー族の出身であり、敵対国とも言って良いエトルリア人の王がその位についたこともある。

「君臨すれども統治はせず」

この言葉はイギリスのヴィクトリア女王の治世について評価された言葉であるが、ある意味その元祖が王制ローマであったとも言えるかも知れない。

王はもちろん権限を持つが、事実上はパトリキ(貴族)が形成する議会である元老院の意向を国政に反映させることで政治を行っていた。

イギリスが名誉革命以降民主制に移行するさいにおいてローマの歴史をよく研究したことは有名であり、その結果エドワード・ギボンのような有名なローマ歴史学者が誕生した。

王政ローマは現在の立憲民主主義に近い政体であったと思われる。

共和政ローマにおける元老院~ポエニ戦争以前~

最期のローマ王「タルクィニウス・スペルブス」を追放したローマは王政から共和政に移行した。

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この頃はアテネに代表団を送ったりしながら国家の運営方法にはずいぶんと試行錯誤したようで、アテネの民主制の良いところは吸収しつつもローマは独自の政体を作り上げる。

具体的には元老院を最高意思決定機関として寡占政治を行うことであった。実際に政務を担当するのは1年任期で毎年選挙で選ばれる2人のコンスル(執政官)であり、このコンスルが内政の統括をするだけでなく司令官として実際の戦闘にも赴くところに大きな特徴があったであろう。

初期の共和政ローマにおいてはコンスルになれるのは貴族だけあったが、これが変わったのが歴史の教科書にも出てくる「リキニウス・セクスティウス法」である。

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この法律によってローマ最高職であるコンスルには平民出身者でも就くことができるようになる。この法律が多くの貴族階級の人間の賛成多数で可決されたところにローマという国の本質があるように思える。

この頃のローマにおいては貴族階級は既得権益者とはならずに、「レス・プブリカ(のちにリパブリックつまり共和国の語源となる)」と言われる共同体の維持を優先事項として国が一丸になっていたことがこの一時でもって伺える。

「〇〇法」というのは受験生を苦しめるだけの存在になりがちだが、その重要性を鑑みれば教科書に載っているのも納得の重要度であろう。

ローマはさらに進化し、平民会の決定であればそのままローマ法になるというホルテンシウス法も可決させることになる。

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このホルテンシウス法はだが、後に悪用されるようにもなる。

この政体は国力であれば何倍にもなった大国カルタゴに勝ったことでその有用性が発揮されたと言えるだろう。

カルタゴにもハンニバルをはじめ名将はいたが、国を守ろうとするローマ側の意思の強さに敗北したとも言え、まさにアテネがペルシャに勝ったようにローマもカルタゴに勝利するのである。

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共和政における元老院~ポエニ戦争以後~

しかしポエニ戦争以後の元老院階級は既得権益者となってしまった。

それを是正しようとしたグラックス兄弟の改革を元老院は全力で潰す。

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グラックス兄弟の改革は、ポエニ戦争以降の社会のねじれを解消しようとしたものであった。

ポエニ戦争以降、領地が拡大されたローマは例にもれず一部の人間達が大土地所有をするラティフンディア制にもと格差が開いていった。

ホルテンシウス法において大土地所有は制限されていたが、実際に元老院議員たちは解放奴隷の名義において大土地所有を行うということをしていたのだ。金持ちや権力者のやることは古今東西変わらない。

グラックス兄弟はそこにメスを入れて殺された。

国の腐敗は軍隊の弱体化につながった。

常勝を誇っていたローマ軍は度々敗北を味わうようになり、ゲルマン人の侵攻(キンブリ・テウトニ戦争)や友好国ヌミディアの王によるユグルタ戦争、ラテン民族同士の争いである同盟市戦争など所謂「内乱の一世紀」の時代へと突入してしまう。

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これまでローマは対外戦争を行い勝ってきた訳であるが、この内乱の一世紀においては内部での戦争という性格が強くでており、特にキンブリテウトニ戦争の英雄マリウスとミトリダテス戦争の英雄スッラの激突はローマを血で染めるまでに発展してしまう。

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このような状態において元老院はますます腐敗する。

スッラ亡き後のローマはさらに拡張の一途を辿り、元老院議員は拡大する属州において高利貸しを営むようになり、金持ちはより金持ちに、そうでない市民は益々没落していった。

そういった状態に歯止めをかけようとしたのがユリウス・カエサルであった。

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カエサルはグラックス兄弟が挫折した大土地所有を制限する「農地法」を成立させ貧富の拡大を阻止しようとした。

その結果どうなったかというとやはり暗殺された。

カエサルの暗殺には40名にもおよぶ元老院議員が参加していたと言われている。

帝政ローマにおける元老院~プリンキパトゥス~

カエサルの後を継いだオクタヴィアヌスはとにかく元老院を刺激しないように慎重に慎重にことを進めた。

オクタヴィアヌスは内戦を終結させ、元老院からはアウグストゥスの尊称を与えられたが、自らはローマ第一の市民を表す「プリンキパトゥス」を名乗り、あくまで政治を行うのは元老院でありローマ市民であるという建前のもと政治を行った。

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初代皇帝アウグストゥスのこの路線を後継者たちは引き継いだ。

だがそれが故に元老院の意に沿わない皇帝は問答無用に暗殺された。

これは元老院が現代の政体における「不信任案」の権限をもっておらず、暗殺によってしか首長の交代を実現できなかったであろう。

歴代ローマ皇帝の実に半数が暗殺によって命をおとしており、半数近くが元老院によるものだと言われている。

カリギュラのように明らかなものもあるが、ドミティアヌス帝のようにその関連が疑われているだけで証拠がなにもない暗殺も多数ある。

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元老院がもっていた権限

法律上、元老院はやはり国政への助言を行う機関であった。

しかしそれは建て前で、やはり実質的には元老院が政治を行っていた時期が多い。

元老院派しばしばその歴史において強権を発動させている。

その代表的な例が「元老院最終勧告」と「記録抹消刑」であろう。

ユリウス・カエサルがルビコンを渡る際に「賽は投げられた」と言ったのは有名であるが、これはカエサルが元老院から「元老院最終勧告」を受けていたからでありそれが発動されるとその人物は国家の敵と認定されることになる。

カエサルの意見では元老院が「最終勧告」を行う権限はないという。これは元老院における法解釈の賜物であり本来の法的権限はないという。

なおカエサルは軍人として政治家として有名だが、同時に最高神祇官であり弁護士でもあった。文学的にも優れた作品を遺すし、まさに万能の天才である。

もう一つの記録抹消刑は文字通りその人物の記録をローマも公式記録から全て抹消するというもので、幾人かのローマ皇帝などがその対象となっている。

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そして何より、帝政になったからは元老院が承認を与えた者のみが正当な皇帝であるという部分が何より強い権言であると言えるだろう。

暗殺と含めて、皇帝と言えども元老院には逆らえないということでもあった。

軍人皇帝時代における元老院

帝政の初期から、元老院と軍部の仲は非常に悪化していた。軍人皇帝時代と言われる軍部が力を持った時代にはそれが顕著になり、皇帝自体がローマによらなくなる現象が起こると元老院はないがしろにされ、その権威が大幅に下がることになった。

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帝政ローマにおける元老院~ドミナートゥス~

元老院の失墜が確かなものになるのはディオクレティアヌス帝の時代である。

ディオクレティアヌス帝は軍人皇帝時代を終わらせた皇帝で、帝国を4つに分け、元老院を尊重していたプリンキパトゥスを終わらせ、専制君主政治であるドミナートゥスを開始した。

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この頃の元老院は戦車競走のスタートの合図をする役割と言われていたほど何もすることもなく、権限もまるでなかった。

さらにコンスタンティヌス帝になるとローマに代わる新都コンスタンティノープルを建設し、ローマとは別にコンスタンティノープルの元老院を発足させてしまう。

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コンスタンティノープルの元老院は皇帝の諮問機関として機能し、その役割は文字通りの助言をするというものにとどめ置かれた。

テオドシウス帝以降東西に分かれたローマ帝国であるが、西ローマ皇帝はローマではなくラヴェンナに住まい、元老院の力が回復することはなかった。代わりに力を持ったのが官僚たちであり、肥大化した行政のもとローマは滅びゆくことになる。

ローマ滅亡後の元老院

東ローマ帝国のコンスタンティノープル元老院は皇帝の諮問機関として1453年に滅亡するまで存続した。

西ローマ帝国は476年に滅びたと言われているが、元老院は実はそのまま残り続けた。

オドアケルもテオドリックも、政体そのものは維持させたからだ。くしくも元老院はその最大の敵であったゲルマン人の手によってその役割を取り戻したのだ。

それゆえに476年にはローマ帝国は滅んでいないという意見もある。ローマはなにせ元老院であり元老院はローマだからだ。

しかしそのローマを終わらせたのは皮肉にも生き残った東ローマの皇帝であった。

ユスティニアヌス帝はローマを再び支配し、そして荒廃させた。その過程でローマ元老院を解散させ、以降ランゴバルド族がローマを支配した時には影も形もなくなっていた。

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元老院議席と資格について

ローマ元老院の議席は当初300人であったが、紀元前一世紀に登場したスッラによって600人に増員され、カエサルがこれを900にし、アウグストゥスはこれを600人に戻したという。

元老院議員は実はその地位までは世襲制ではなく、選挙によって選ばれる要職、具体的にはコンスル、プラエトル、クワエストルなどを経験すると元老院に議席を与えられるようになる。

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新規に元老院議員になったものは「ホモ・ノビレ」と呼ばれ、日本の世界史の教科書はこれを新興貴族層「ノビレス」と解釈しているようだ。

要職に就くには30歳以上の年齢に達している必要があり、ポンペイウスがミトリダテス戦争を終結させた時にはまだ30歳手前であったために元老院議員ではまだなかったという逸話も残っている。

ローマの元老院について思うこと

ハリウッドの映画などではしばしば元老院主導の共和政が理想しされ、ローマ最大の歴史家タキトゥスなども共和政の信奉者である。

現代の政治システムにおいてもこの元老院主導のローマ時代をもとに作られており、その影響力は計り知れないというべきであろう。

ただしその弊害も受け継いでおり、各国で議員階級の汚職などが絶えない。

イギリスの政治家ウィストン・チャーチルは「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」という言葉を残しているが、これ以上に民主主義や元老院を表した言葉はないであろう。

 それにしても、西洋諸国家はこのように紀元前から議会や民主主義を体験しているという下地がある訳で、その下地のない我が国日本に民主主義はなじまないよなぁと思う。

日本人は結局のところ21世紀になっても「お上意識」は抜けないし、やはり東洋的専制君主政治になじんだ民族なんだよなぁ。